筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる 筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる
現代語訳
筑波嶺の峰から落ちるみなの川。その流れが積もって淵となったように、私の恋も積もって深い淵となってしまったよ。
所載歌集
後撰集 恋三 776

長すぎる余生

峰から「落つる」川は細くて速い。やがて水かさが増して、水底深い淵となる。川が成長する様子をさらっと言いのける。ただ、そこに一語「恋」を入れただけで、激しい流れからいつしか淵となった川のさまが、あっという間に心を占め深く思うようになった恋の比喩となる。川の成長は恋の成長でもあった。そして筑波山といえば歌垣。古代、若い男女が集まり歌を詠み交わした一大イベントの場だ。その猥雑でエネルギッシュな雰囲気は『常陸国風土記』や『万葉集』が伝えている。

平安時代になると表現が洗練され「人に心をつくばねの」や「君に思ひをつくば山」など、恋の思いが「付く」に掛けてうたわれる。これらを踏まえて初句に立ち返ると、この地名に託した思いに気づかされる。読み返さずにはいられない、よく練られた歌である。出典の後撰集の詞書によると15光孝天皇の皇女・綏子(すいし)内親王への贈歌。

陽成院は父・清和天皇が27歳で突然出家したのを受けて、879年に9歳で即位。陰には藤原基経の存在があった。しかし在位9年で退位を余儀なくされる。奇行乱行が多かったと伝わる。その後は子とともに歌合を催すなどの和歌事績を残しつつ、上皇として60年以上を過ごし949年に82歳で没す。和歌はこの一首が伝わるのみ。20元良親王は退位後にもうけた第一皇子。

〈暁星高等学校教諭 青木太朗〉

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