風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける 風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
現代語訳
風がそよぎ楢の葉にかかる、そんな「ならの小川」の夕暮れは、みそぎこそが夏のしるしであるよ。
所載歌集
新勅撰集 夏 192

やさしい歌の背景には

風がそよぎ楢の葉にかかる、そんな「ならの小川」の夕暮れは、みそぎこそが夏のしるしであるよ。 涼しい風が秋の訪れを告げる。この中国由来の季節観が、古今集・秋上の巻頭歌「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(秋が来たと目にははっきり見えないが、風の音に気づかされたことだ)」という18藤原敏行の代表作によって定着する。「ならの小川」は京都・上賀茂神社の境内を今も流れる御手洗川。「楢」との掛詞で、葉音を残す夕暮の風は初秋のものという。しかし季節はまだ夏。それをはっきりとさせるのが「みそぎ」、すなわち6月末日に行われる夏越の祓えだ。河原で身を清めたりお祓いをしたりすることで半年間の穢れや罪業を払い落とす神事。古く「水無月の夏越の祓へする人は千歳の命延ぶといふなり」(拾遺集・賀)とうたわれ、長寿を予祝する一面もあった。

この歌は、新古今集に入る古歌「みそぎするならの小川の川風に祈りぞわたる下に絶えじと(みそぎをするならの小川の川風に祈り続けたことだ、人知れぬ恋仲が途絶えることないようにと)」から恋の要素をはずし、夏の最後の厳かな光景を詠じる。

1229年、前関白九条道家(91藤原良経の子)の娘・?子(しゅんし)が後堀河天皇に入内する際に用意された屏風歌の一首。平明な中にも表現の伝統が凝縮されている。作者・藤原家隆は97定家と並び新古今を代表する歌人。

上賀茂神社

〈暁星高等学校教諭 青木太朗〉

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