村雨の露もまだひぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮 村雨の露もまだひぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮
現代語訳
村雨の露もまだ乾かぬ真木の葉に霧が立ちのぼってゆく秋の夕暮れよ。
所載歌集
新古今集 秋下 491

晩年にたどりついたところは

「真木」とは杉や檜といった高木の常緑樹の総称で、山あいに密生する。にわか雨が降りかかり、葉の上や葉先にはまだ露が(したた)っている。雨後のひんやりした空気につつまれて日が暮れようとする中、白い霧が立ちこめて露を隠し、緑の葉を隠し、ついには木々の連なる山々をも覆いつくそうとする。その霧もまた哀愁を帯びた夕日に染められようとしている。葉先の露を見ていたはずなのに、いつの間にかふもとから濛々と霧の立ちのぼる山あいを見上げている。

時の流れといい、目の置きどころといい、目まぐるしい変化が無言のうちに繰り広げられる。「秋の夕暮」と体言止めにすることで、冒頭から動き続けた世界がぴたっと止まる。夕暮れ時の、張りつめた静けさがじんわりと広がっていく。感情を表す語はひとつもないのに黄昏時の物寂しさを呼び起こす。

99後鳥羽院は寂蓮を「なほざりならず歌詠みし者なり(いい加減な取り組みはしない人だ)」と、その和歌への真摯な姿勢をたたえた。新古今集の撰者のひとりとなるが完成を見る前の1202年に没。「三夕の歌」の一つ「さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮(寂しさは特にこれといったものではなかったのだ。真木立つ山の秋の夕暮よ)」も有名。「村雨の」はこの歌から十年後、亡くなる前年の作。具体的な光景だけで余情を持たせるところに晩年の境地が見える。

〈暁星高等学校教諭 青木太朗〉

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