心にもあらで憂き世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな 心にもあらで憂き世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
現代語訳
心ならずも辛いこの世の中に生きながらえたとしたら、恋しく思うにちがいない今宵の月だよ。
所載歌集
後拾遺集 雑一 860

月に見たものは

976年、冷泉天皇の第二皇子として誕生。母は藤原兼家の娘・超子(ちょうし)。986年、花山天皇の退位・出家に伴い東宮に。この時即位したのが超子の同母妹・詮子(せんし)を母とする7歳の一条天皇。東宮の方が年上であった。この時点で歯車が狂った。一条天皇の時代は初期には道隆が、後には道長が外祖父として実権を掌握し在位25年に及ぶ。その後を継ぎ1011年に即位したときには36歳になっていた。1014年ごろから眼病を患い、道長周辺から退位を迫られる。1016年、道長の娘・彰子を母とする後一条天皇に譲位。在位わずか5年であった。1017年に出家し、まもなく42歳の生涯を閉じる。

『栄花物語』によると、この歌を詠んだのは1015年の「師走の十余日の月いみじう明きに」とあり、満月に近い月を見ての述懐歌。出典の後拾遺集の詞書には「位など去らむとおぼしめしける頃」と、退位を決意したころのことだとする。

第六勅撰集の『詞花和歌集』には八月十五夜を詠んだ「秋にまた逢はむ逢はじも知らぬ身は今宵ばかりの月をだに見む(再び秋に逢うか逢わないかわからぬ我が身は、せめて今夜限りの月だけでも見よう)」が伝わる。この歌との前後関係は不明だが、いずれも未来から振り返った現在という視点の歌である。このまま視力が低下し続けることを見越したうえで今の月を心に焼きつけようとしているかと思うと、せつなくも愛おしくもなる。

〈暁星高等学校教諭 青木太朗〉

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