わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟
現代語訳
「広い海原のたくさんの島々を目ざして漕ぎ出した」と都の人には伝えておくれ、海人の釣舟よ。
所載歌集
古今集 羇旅 407

どこから漕ぎ出たか

802年、漢学者小野岑守(みねもり)の子として生まれた篁はその才を受け継ぎ833年には「律令」の「令(朝廷の仕組みを支える法律)」の注解「令義解(りょうのぎげ)」の撰進にたずさわるなど、学者としての評価を高めていく。その後、遣唐大使・藤原常嗣(つねつぐ)のもと副使として唐に渡るよう命を受ける。ところが常嗣の船に不具合が生じ、篁の船を大使の船にせよとの勅が下ったことを不服として乗船を拒否した。これにより836年隠岐に配流される。出典の古今集には「隠岐の国に流されける時に、舟に乗りて出で立つとて京なる人のもとにつかはしける」と詞書がある。都では年老いた母親が貧しい暮らしをしていた。篁は水を汲み薪を採り、孝行を尽くしたという。「人には告げよ」には老親を思う息子の悲痛な思いが込められている。

なお、難波で船に乗り瀬戸内海を経て隠岐へ向かったのか、出雲国までは陸路だったのか、二つの説がある。後者であれば、都からつながった陸路を離れることの不安や孤独が際立ち、漁師への(こと)づても切実なものとなる。

古今集には隠岐で詠んだ「思っても見なかったよ。田舎への別れに年衰えて海人の縄を手繰って漁をしていようとは(思ひきや(ひな)の別れに衰へて海人の縄たき(いさ)りせむとは)」も伝わる。配流から一年で赦免され都に戻り、元のごとく活躍をしたという。

〈暁星高等学校教諭 青木太朗〉

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